【地区】






【地区】
2017.5.13
唐突に地区にいた。
ミムラが、だきちゃんとうーちゃん、ぎーちゃんにも何か食べさせていた。
「ね」「い」「に」?
文字?
「なんかー、こないだ地区にすっごい音して落ちてきたんだよ、7文字」
ミムラが肩をすくめながら呆れ顔で言った。
「またmymulaが受け止めきれなかったみたいね。まぁ内容からして、仕方なし?」
それって。
「いろいろ並べ替えたけど、『死ねばいいのに』ってやつかな? 覚えある!? こういうときばっか地区に当たるんだから」
・・・。
「ウソウソ。mymulaが本当に困ったときのために地区があるんだからね。それに今回の文字は、とりあえずオーブンに入れて焼いてみたけど、新しい味みたいで、みんな珍しがって美味しそうだよ。これ誰の言葉? ミムラも知らない人だよね」
「って、今はmymulaは話せないモードかな。ここからもいるのは分かるけど、見えない」
うーちゃんが、きしゃーっと鳴いて、ミムラに次の文字をねだっている。
「これ食べて大丈夫かな?」
ミムラの手には「死」の文字が握られていた。
するとぎーちゃんが、それを口で引ったくったかと思ったら、片足で踏みつけて粉々にした。
「さすが! ぎーちゃん!」
ミムラは拍手した。
「これ、ホントの言葉じゃないね。そうじゃなかったら、いくらぎーちゃんでもこんなにあっさり潰せない」
「そんなニセモノの言葉を、受け止めきれなかったの?」
mymulaの目から涙があふれた。涙だけが地区の地面に落ちた。
「あ、泣かないで。ごめん」
だきちゃんが、涙の水たまりを横切って、mymulaのいるあたりを、ゆっくり回っていた。
久しぶりに会えたのが嬉しくて、だきちゃんをそっと撫でようとしてみるけれど、空間の位相が違うのか、触れなかった。
「本当に地区に来てないってことは、きっとmymulaはまだまだ大丈夫だよ」
「その声の人に、いつかミムラも会いたいな? 地区に来られるような人か知らないけど」
「とってもやわらかい声。mymula好きでしょう、この声の人」
「勝手にその人の声を使って、悪い言葉を捏造しちゃダメだよ。その人が好きならなおさら」
「でもつらいときは地区においで。みんないるし。nobodyもどっかそこらへんにいるよ」
「また地区を見て回ってよ。正直ミムラにも今、この地区がどこにあってどうなってるのか分からないから」
ミムラはそう言って笑った。
「ま、とりあえず、見えないけど、久しぶりに会えて嬉しかった。おやすみ」
地区の光源が、がしゃんと落ちた。



「気になるな〜」
だきちゃんをよしよししながら、ミムラはつぶやいた。
「どんな人か断然気になる!」
「でもmymulaは帰っちゃったみたいだし、手がかりないなぁ」
ミムラははたと思いついて、地区mのところに行ってみた。
「あ! ちゃんと開通してる」
一度は水源と切り離されたはずの地区mは、なみなみと水をたたえていて、鏡のようにきれいな水面が穏やかに光っていた。
「sokoさんもまだいるのかな?」
ミムラは覗き込んでみる。
はるか下の方で、人魚のsokoさんがちらりと身をひるがえして消えていくのが見えた。
ミムラがほっとして池の縁に座り込んだときだった。
じゃばっと大きな音がして、水の中から丸いものが飛び出してきた。
「何!?」
丸いものは、うーちゃんの頭に当たって、ころころと転がっていった。
白と黒の模様の、ボール?
そこにnobodyがやってきた。
「ミムラ、ここにいたの」
「へんなもの飛んできた」
「ん?」
ぎーちゃんが喜びいさんで戯れているものを指差して、ミムラはちょっと不本意な顔をした。
「ああ、あれはサッカーボールだよ」
「サッカー?」
「mymulaがいるところでやってるスポーツの一種」
「スポーツ?」
「人が身体を使って、記録を競ったり、戦ったりして楽しむんだよ」
「戦うの? それ楽しいの?」
「戦うというのは形式的なことで、とどのつまり技術を競うことだからね。能力のある人にとっては楽しいんじゃないかな。それに、それを観る人間にとっても、その技術を観られたり、勝利を一緒に味わったりするのは感動的で面白いのさ」
「ふうん」
「サッカーは、そのボールを手を使わずに、主に足で操って競技をするんだよ」
「へんなの」
「変かな?」
「変だよ」
「ミムラは観たことがないものだからなぁ」
「nobodyはあるの?」
「地区から離れているときに、何度か見かけたよ。mymulaが好きだったからね」
「へぇ、そうなの」
ミムラはぎーちゃんからサッカーボールとやらを取り上げて、目の前に持ってきて、まじまじと見つめてみた。
「これを、足でねぇ」
「ここで出てきたってことは、ミムラが気になってる人に関係あるんじゃないかな。多分ね」
nobodyは、何か知っていることがあるように、くすくすと笑った。
「え? これが? んー、ますますよく分からない」
ミムラは、ようやく静かになった水面を覗いてみたけれど、小さな魚たち以外、何もいなかった。

2017.5.29
ミムラがいつものように文字の織物を織っているとき、目の端で何かが動いた。
「ん?」
腰掛けから立ち上がって、見回したら、家の中に転がりっぱなしになっていた、nobodyが言うにはサッカーボールとやらが、ころころと転がっているところだった。周囲には特に風もない。
「んん? このボール、自分で転がってる?」
ミムラはそばにしゃがんで、じっとサッカーボールを見つめた。
何というか、端から見ると、ボールは右へ左へ斜めへと転がって、頑張っているような感じに見えた。
ボールが動いているのを見つけた銀色の麒麟のぎーちゃんが手を出しそうになるのを、ミムラは抱っこして制して、そのまま見つめていた。
本当は龍なのだけど普段は水色のあめふらしの姿をしただきちゃんも、羽根がすべて人間の腕をしている鳳凰のうーちゃんも近寄ってきた。
ボールは、まだ頑張っている。
みんなで見つめて黙ったまま応援した。
ボールは、ついにぽんっと音を立てて。
白い手足が生えた。
「えー」
ミムラは、その唐突さにびっくりして笑った。
手足を生え終わって、サッカーボールは、ちょっと疲れたのか、しばらくだらっとしていた。
「大丈夫?」
ミムラは一応、声をかけてみた。
「はい、何とか」
ボールが答えた。ミムラは、ちょっと首を傾げて、
「その声、この前の『死ねばいいのに』の人と同じ。あなたがmymulaの大事な人? って、、あなたボールだよね・・・」
と言った。
「いや、声は借りているだけです。mymulaさんの手持ちの声が他になくて」
「そうなんだ」
その人自身が来てくれなかったのを、ミムラは少し残念に思った。
「あたしはmymulaさんの家にいるサッカーボール、だと思います。そのつもりでずっとやってきました。なんでここに来たのかはよく分からない」
「mymulaのうちにいたんだ〜」
「はい、今も多分、あっちにも現物はいるんじゃないかと思いますけど」
「ふうん」
しばらく沈黙があった。ミムラは抱いていたぎーちゃんを離した。ぎーちゃんは、手足のできたサッカーボールには手を出さず、じっと見つめていた。
ミムラはちょっとこの状況に困っていたし、サッカーボールもちょっとこの状況に困っているみたいだった。
サッカーボールは、起き上がってから、ふぅとため息をついて、膝を抱えて座った。手足は生えたものの顔がないので、イマイチ何を思っているか分からない。
「いいけど。好きなだけいてくれて」
ミムラは何となく沈鬱な雰囲気のサッカーボールにそう言ってみた。
「ありがとうございます。何か、ここに来てからいろいろ考えちゃって」
「そうなんだ」
「お邪魔にはならないと思うので」
「うん、いやホント、別にいいから、いてくれて」
そんなわけで、mymulaの大事な人の声をした、手足つきのサッカーボールが地区に住むことになった。

2017.5.31
「今、地区は変なところにつっこんでるね」
とnobodyが言った。
「そうだよね。少し前に気づいたんだけど、あれ」
と言って、ミムラは地区の真っ白な空の西の方を指さした。
「あんなでかでかと出てる」
そこには「中野真奈美さんのこと。」というグレーの文字が2行にわたって浮かんでいた。
nobodyは腕組みをして、
「莎九父はなんでこんなところに来たのかな」
と言ってみたが、地区を支えている巨大な亀の莎九父は応答する様子がなかった。
「莎九父にもコントロールできなかったのかもしれない」
nobodyはそう付け加えて、
「気をつけた方がいいかもな。13年ぶりに今回mymulaが地区にアクセスしてきた時点で、何かしらの危機感はあったんだろうけど、mymulaにとっておそらく今はあの頃以来の正念場なんだろう。地区を使いながら、うまく持ちこたえられるといいけど」
と言うと、地区wの方へ歩いていった。
「ミムラがいるから大丈夫って言いたい」
ミムラは下に伸ばした両手をぎゅっと握って、しっかり立った。

2017.7.6
地区にはポストがある。本当に初期の頃から。
「あれ、手紙来てる」と、実は毎日ポストを覗くことを欠かしていなかったnobodyが言った。
「えー? もうずっと何も来てなかったのにね」とミムラが覗き込んだ。
「僕宛だ」
「あ! mymulaからだ! ね、読んで! 今、今!」
ミムラははしゃいで言った。
「うーん、僕宛だからな。僕が最初に読むよ。ミムラにも聞いてもらった方がよければ読んであげる。それでいい?」
「うん」
ミムラはちょっと残念そうに、でもちゃんとうなずいた。
nobodyは一人で、相変わらず植物が生え放題の地区wに行って、かつて骸骨だった自分がじっとミムラに見つけてもらうのを待っていた場所に座って、封筒を開けた。
真っ白い封筒、真っ白い便せん。深い紺色の文字。
「mymulaらしいな」
とnobodyは笑った。

2017.8.7
mymulaからの手紙は長かった。
「どうしたんだろ、こんな大作」。
nobodyはちょっと真面目な顔になって読みはじめた。



nobody。元気?
ミムラも元気? だきちゃんやうーちゃんやぎーちゃんも元気かな?
それに、莎九父も。。

私ね、今、ナガノというところによく行ってるの。
nobodyもきっと薄々気がついているように「中野真奈美さんのこと。」の彼女に少し大変なことがあって。彼女が落ち着いた先がナガノなんだ。
でね、実は莎九父の故郷もね、ナガノなの。
不思議な符合でしょう?
彼女が、私をナガノに連れてきてくれたの。私も、気がついてからびっくりした。
この件について、莎九父がどのくらい意図したかは私にも分からない。最初に「中野真奈美さんのこと。」に地区が突っ込んだときは、まだ彼女は前の場所にいて、その後も行く先もまったく決まっていなかったからね。
でもね、今にしてみれば、莎九父が地区を連れてきたのは、だから「中野真奈美さんのこと。」のところで間違ってなかったの。

今から、nobodyに初めて会う前、莎九父がなくなった頃のことを、少し、話すね。
nobodyは一度、地区gまで行っているから、莎九父から聞いていることもあるかもしれないけど、私の話として聞いて。

莎九父がなくなったことを知らせる電報が来たのは、冬の寒い日だった。
莎九父と同じ苗字の知らない人からの知らせで、連絡を請うと書いてあったから、連絡したら、莎九父の下の弟さんだった。それで、遺体は警察にあるというのね。
それで、母親に電話して、翌日、一緒に警察に行ってもらった。
警察で会った莎九父は、足を上げて膝を曲げて仰向けに寝ているような格好で、焦げ茶色のミイラになっていた。博物館以外でミイラを見たのは、もちろん初めてだったよ。
警察の人は「事件性はないと思います」と言っていた。監察医の人によると(本当にいるんだね、監察医って)「死因はこの状態ですので特定できません。衣類の様子から見て、最後に発作のようなものがあったようなので、ありきたりになりますが心臓発作ということで」とのことだった。
莎九父と私が最後に会ったのは、小学校の低学年だったと思う。2歳で離れて以来、数回、2人で会ったかな。あんまり記憶にないんだけど。
だって、記憶しておいてもしょうがないことだと思ったから。私は莎九父を嫌いではなかったけど、好きになってもしょうがないと思っていた。いない父親というものに対する思い入れや憧れのようなものもなかった。祖母も母も莎九父の話はほとんどしてくれなかった。
しょうがない。それが莎九父に関する私の感情のすべてだった。
20歳になって、義父から連絡をとりなさいと電話番号をもらって電話したときは、気持ち悪くて吐きそうだった。その頃につきまとわれていた先輩の声とそっくりだったから。莎九父の、申し訳なさそうな、こびるような声も嫌だった。
でも、父親には違いないんだし、何とか関係を構築しなければって、手紙のやりとりだけしはじめた。莎九父も私も書くのが好きだったからね。これは血だね。私のやっていた文芸の同人誌に寄稿もしてもらった。莎九父は俳句もやっていたから。「莎九」って名前で。これも私としては関係性構築の一つの手段だった。うまくいったかは結局分からない。

警察の人に案内されて行った莎九父の家は、借家のアパートで、入口付近まですさまじい書類とゴミに覆われていて、蛆と蠅の死骸もすごかった。中はもっとすごいらしかった。
莎九父の血を継ぐ人は、私以外にいないとのことだった。母と別れてから、ずっと一人で暮らしていたみたい。だから、今回のことも、いわゆる「孤独死」ならしかった。
とりあえず、すぐに区の施設で荼毘には付した(荼毘なんて難しい言葉も、その中途半端な状態も、このとき初めて知ったよ)。
式には、ナガノに住む上の弟さんと、関東に住む下の弟さんと、そのお二人の家族が数名、来てくださった。こちらはその頃の同居人と母親だけ。
控え室で、上の弟さんが突然「賛美歌を歌います」と宣言なさって、みんなで弟さんが持ってきた賛美歌集を持って、賛美歌を歌った。私は幼稚園が教会の施設だったので、聞いたことのある曲だった。私のちょうど正面に、上の弟さんがいた。目元が、かすかに覚えている莎九父に似ているなと思ったら、涙がぼろぼろ出てきた。悲しいわけではなかった。嬉しいわけでもなかった。
お骨は私が持って帰った。

家の片付けを大家さんに急かされていたけども、あまりにすごい部屋だったので、自分の力だけでは無理だと判断して、いろいろ探して、便利屋さんに手伝ってもらった。便利屋さんの2人の若いお兄さんは「こういう仕事も今は意外とあるんですよ」と言って、淡々と作業してくれた。一緒に5、6回、やったかな。莎九父の弟さん2人が手伝いに(というか様子見に)きてくれたこともあった。
同居人もこの唐突さを黙って受け入れて、作業を手伝ってくれた。彼は、この状況を何とか明るくしようと、私が20歳のときに莎九父にプレゼントしたぐい飲みと小皿が、タオルに包まれてタンスの奥にあったのを見つけて、「見て、ほら! 大事にしてくれていたんだよ」って言ってくれたりした。大事にするって。。台所はゴミと書類であふれていて、食器どころじゃなかったから、そういう形になったんだろうけど、そういう仕方で大事にされても。。でも、同居人の気持ちも莎九父の気持ちもよく分かったから、私は、「そうだね、ありがとう」と言った。
1000円札のお札番号の控えがいくつも大量に見つかった。何のために、控えていたのか。今となっては謎は謎のままだ。コレクターでもなさそうだったし。どうやら父親は私と同じ病気だった可能性があるので、誰かへの暗号のつもりだったかもしれない。
そんなふうに、ゴミと書類に紛れて、お金もあった。
何もかもめちゃくちゃに混ざった部屋だった。
すべてが暗号であり、すべてが混乱していた。
他殺の可能性だってゼロじゃない。探偵になったような気持ちで、私は部屋を片付けていった。
見つかったお金を数えるのに、近所の喫茶店に行って隅の席でやったけど、どう考えても端から見たらおかしな行動だった。同居人に申し訳ないと思った。
ゴミは2トントラックで何度往復しただろう、ゴミの仕分けをする余裕もなく、家具も電化製品もひっくるめて、ただの廃棄処分になってしまった。死人の匂いにも慣れた。でも莎九父の部屋以外のところで嗅ぐと、とてつもなく不安になった。

部屋にはアップライトのピアノがあった。ピアノをやっていた母の影響だけでなく、莎九父の母親もピアノが好きだったと聞いたことがあった。私にも簡単なピアノ譜を送ってきたりしていた。ピアノの中も蛆と蠅の死骸がすごかったけど、ピアノ自体は古びていなかったので、きれいにして、業者に引き取ってもらった。
ピアノを引き取ってもらう日は、クリーニングの人に最後に部屋の掃除に入ってもらうことになっていたので、もうすっかり片付いていたし、母親に「来る?」って言ったら、警察と一緒に来た日以来、来てくれて、きれいになったピアノを一通り弾いてくれた。莎九父が喜ぶかなと思って。ピアノにも少しは新しい気を入れてあげられたかな。掃除に来た人が「いい音ですねぇ」っていたく感動して、母親のピアノを褒めてくれた。

部屋が片付いた次は、莎九父が大学で占領していた研究室の、同じようなゴミと書類の整理が待っていた。
研究室2つ分、強制退去させられて、中身はすべて業者がダンボールに無理矢理詰め込んで、大学の敷地の端にある、使っていない山岳部の部室の中に数百箱にもなって入っていた。
それほど急かされていなかったので、今度は、燃えるゴミと燃えないゴミは分けよう、と思った。部屋のゴミを分別できなかったことが気になっていた。また部屋のときと同じように、ゴミに混じって給料袋がそのまま入っていた。莎九父が講義で使った教材や、展覧会の図録やポストカードやなんかもたくさん見つかった。教養の授業だったので、何をやってもよかったらしく、面白そうな内容もあった。生徒さんの答案用紙もあった。
莎九父がなぜ死後、約半年で発見されたかというと、かつて授業を受けていた生徒さんが莎九父が学校に来ないのはおかしいと、莎九父の家まで訪ねてきて、大家さんに直談判してくれて、その後、結局数ヶ月経って、大家さんが重い腰を上げたのがきっかけだったと聞いた。その生徒さんには後で手紙で御礼が言えた。

この山岳部の部室での作業の合間に、私が莎九父のことを知るためと、莎九父の生前の御礼を伝えるために、部屋から見つかった知り合いらしき方々の連絡先に、できうるかぎりの言葉で手紙をいっせいに書いて、公共の施設で「たどる会」というのを開いた。思ったよりも多くの方が出席してくださって、お食事をしながら、いろいろな方が、いろいろな時代の莎九父のことを教えてくださった。遺影を当時住んでいた近所の写真屋さんで作ってもらって、当日は献花で簡単なお別れもしていただいた。
しばらくしてから、ナガノでのお葬式もあった。上の弟さんのツテだった。うちにあったお骨を、同居人があまりよく思っていないのが伝わってきていたので、荼毘に付してから半年以上かかったけれど、ナガノの教会でお葬式ができて、共同の墓地にも入れてもらえて(いちばん下の、若くしてなくなった弟さんもここに入っている)、本当によかったと思った。ナガノでの教会でのお葬式には、賛美歌の伴奏をする人がいなくて、母親に頼んだ。母親は驚いていたけど、快く引き受けてくれた。お葬式には、父がお世話になった大学関係の数名の方も出席なさりたいとのことだったので、旅程を手配して、東京からお連れした。よく知らない親類縁者の方々がいらした。まだ母親と別れる前の義父も「気の毒だから」と出席してくれた。おかしなお葬式だった。でも、すでに何がどうおかしいのか分からなかった。

片付けの作業のときに、2人の弟さんがいらっしゃる日があったので、使っていない新品の道具などで使えるものなどは分けておいて、持ち帰っていただいた。
作業はほんの少しずつしか進まなかった。だんだん、同居人に頼るのがつらくなってきて、仕事の合間に一人で作業するようになっていった。この頃はもう、すでに独立してフリーで仕事をしていたので、時間は工面できた。仕事はかなり減らしたけれど、これでよかったと思った。

その日も作業をしていた。
これは、燃えるゴミ。これは、燃えないゴミ。
夕暮れが近づいていた。
山岳部の部室の目の前には、職員用のテニスコートがあって、そこで楽しそうにテニスをする人たちがいた。ボールの音が気持ちよく響いていた。
遠くの棟の屋上からだろうか、トランペットが聞こえてきた。ジブリのアニメ『天空の城ラピュタ』のパズーが、飼っている鳩に向かって吹く、あの有名な曲だ。
蝉が時折鳴いていた気がする。
なんてのどかで幸福な光景なんだろう。
私は手を止めて、ほっとして、ため息をついた。
そのとき、私の中で、音もなく何かが壊れた。

しばらく後に、大学から、部室を解体するから荷物を移動させてほしいといわれて、思案した結果トランクルームに移すことにした。莎九父のことを知る手がかりがもうここにしか残っていないことも分かっていたし、何より、燃えるゴミと燃えないゴミを仕分けしたかった。
その手続きが済んでから数ヶ月後、私はそれとは知らずに静かに発病していた。



手紙はそこで途切れていた。
「ここまでしか、書けなかったのかな」
とnobodyが手紙をひっくり返したとき、そこにはまたmymulaの字で、言葉が書いてあった。



私ね、ナガノに来るたび、今までずっと放置しっぱなしだった、このときに壊れたところ、少しずつ修復できていってる気がするの。ほんのちょっとずつ。本当にほんのちょっとずつ。
ナガノは、莎九父にとって、いちばん幸福な時代を過ごした場所だから、それが、私の壊れたところに伝わるのかもしれないね。
彼女の応援も一緒にやっているから、それもあるかもしれない。
彼女にとっても、ナガノに来られたことは、客観的に見て、よかったって思えてるから。
何だか、ナガノに来て、山並みを見ているとほっとする。
私ね、今ね、ナガノに来られてよかったと思うの。
彼女に、感謝してる。



「そう」
nobodyは、mymulaが聞いてもいないのに声に出して言ってみた。
「長い時間かかったけど、よくここまで来たね」



nobodyは、ミムラのいる地区dまで戻った。
ミムラは、「手紙、どうだった?」と心配そうな、でも好奇心旺盛な様子で聞いてきた。
「mymulaは今、治療中みたいだよ。とてもよく効くお薬を見つけたんだって」
「へぇ」
「莎九父のことが書いてあったよ」
「ほんと!? ミムラは莎九父のことはほとんど知らないから知りたいけど、」
ミムラはそこで言葉を切った。
「莎九父のことはちょっと怖いから、今はやめとく」
「いつかmymulaが、もしかしたら莎九父が、直接教えてくれるかもしれない」
「うん。mymulaが元気でいるなら、それでいいよ」
nobodyはそれから、そのへんにいたサッカーボールに向かって、ミムラに聞こえないようにそっと、
「mymulaはここにいる君の存在を知らないと思うけど。君の声の人が、とても大事な役割をしてくれたらしいよ」
と言った。
サッカーボールは黙ったまま、そこでくるりと回って見せた。